2009年12月31日木曜日

アルバニアの年末の風景




12月に入ると市場や路上、時には訪問販売のような形で、七面鳥が売られているのを目撃します。
早めに良いものを仕入れ、生きたまま年末まで家の倉庫で飼っておく方もいるようですし、直前に買いその日にお庭でさばいてしまおうと言う方も多いようです。
年末、都市間を移動するバスの下の荷物スペースにも縛られた七面鳥たちが、辺りの様子をうかがうかの様に目をキョロキョロさせながら、自分たちの出番が来るのをじっと見ています。
日本ではあまり馴染みのない七面鳥ですが、こちらでは“海の雄鶏”という名前で呼ばれています。
(“海のフルーツ”のシーフードは理解ができますが、七面鳥になぜ“海の”とつけられているのか、未だ真相がつかめていません。)
オリーブのみを食べさせ飼育した七面鳥が特においしく、高級だそうです。
皆様も是非一度味わいに来てください!

2009年12月18日金曜日

アルバニアにおける日本の活躍 (医療機材編)


12月18日の新聞に、またまた日本人として誇らしいニュースを発見しました。


新聞によりますと、


副首相で、外務大臣のイリリ・メタ氏が、在ローマの安藤裕康大使(アルバニアにはアルバニア大使館がなく、ローマの在イタリア大使館の管轄となっています。)と会見した。


会見では双方の政治経済における協力強化が話し合われ、アルバニア政府によって作成された様々な分野のプロジェクトに対する、日本政府の支援について論議された。


メタ、安藤、両氏は“地域の救急センターにおける医療機材の改善”プロジェクトの遂行について、サインを交わし協定を結んだ。


この日本円で7億1800万円(720万米ドル)に値するこのプロジェクトで、12地域の健康センターの機材が最新化にされると考えられています。


この 協定締結後、両氏は記者会見を開きました。

“今日までの我が国に対する日本政府の並々ならぬ支援について感謝しつつ、引き続き経済財政面での多大な支援によって我々の発展をサポートしてくれる日本との関係をさらに強めるために、アルバニア政府の決意を表したい。”とメタ氏は語った。


一方、安藤日本大使は“我々にとっても大変な喜びであり、貴国の救急医療センターへの730万ドルと言う額の協定締結に関する、サインが交わされるという機会を得ることができ我々にとっても特別で大変な喜びです。”と表現した。


“私たちは最大限の経済的支援をアルバニアのあらゆる分野にし続けていきたい。アルバニアは日本にとって大変、大変重要な国です。ですから、アルバニアに対してさらに貢献し続けるでしょう。我が国のアルバニアに対する将来における援助の優先分野は、インフラストラクチャー、農業、教育と健康であります。今年9月から、日本は新政府を持ちました。しかし政権交代に関係なく、アルバニアに対する日本の外交政策は、変わっておりませんし変わらないことでしょう。


このカンファレンスのあと、私たちはイリル・メタ氏と相互の最重要課題について話し合い、我々2カ国間の関係を活気づけることでしょう。


また、ビジネス分野における投資をも活気づけ、さらに発展させていきたい。”と安藤氏。

reference: lajme
k.k/NOA

2009年12月10日木曜日





ティラナのあちらこちらでも年末に向けて12月初めよりライトアップされました。
1枚目の写真は、街の中心地で、1930年代の初めのアフメド・ゾグ一世の統治時代に、イタリアの建築家たちにより新しくティラナの街が首都ととしてデザインされた際に建てられた省庁やティラナ市庁舎などの黄色の建物がライトアップされています。
2枚目。振り返って写真を取ると、正面入り口の上に“アルバニア”と名づけられたモザイク画が置かれている国立歴史博物館の建物(左)と、現在は民営化され改築が済んでいますが共産主義時代にも国営の15階建ての一流ホテルとして機能していた、現“ティラナ・インターナショナル・ホテル”(右手。赤いランプで縁取りされた)が見えています。
3枚目。毎年12月からこの街の中心地である国民的英雄のスカンデルベグ広場と、マザーテレサ広場の2か所に突如、遊園地が設置されます。 
後ろに見える絵が、国立歴史博物館のモザイク画です。
街のど真ん中に設置されるので、遅くまで大人も子どもも寒空の下、クリスマスと年末の雰囲気を楽しみます。

2009年12月2日水曜日

独立記念日と解放記念日

11月28日はアルバニア人たちが1912年に、およそ500年続いたオスマン・トルコ帝国支配に終止符を打ち、独立を勝ち得た記念日です。(祝日です。)

実はこの1912年11月28日はオスマン・トルコ帝国からの独立を果たした日として重要なだけではなく、紀元前4世紀に古代ギリシャ人がイリリア人の土地であったこの地域に入植して来て以来、ローマ帝国、ビザンチン帝国、オスマン・トルコ帝国と言った大国に加え、常にヴェネチア人、スラブ人、アンジューなど侵略を受けてき、アルバニア人としての独立国を持ったことのなかったこの国が、アルバニア南部の港町ヴローラにて初めてアルバニアの国旗を掲げ、独立を宣言したという名誉ある日なのです。

したがってアルバニアでは『独立の日(Ditë e Pavarësisë)』とも 『旗の日(Ditë e flamurit)』とも呼ばれます。



一方、11月29日は1944年に第2次世界大戦が終了し、占領が終わった日として『解放記念日』として祝日になっています。

1939年からアルバニアに進軍したイタリア・ファシスト軍が1943年に連合軍に降伏すると、今度はドイツ・ナチス軍によって占領されていました。

1944年11月29日、パルチザンとソ連軍によって全土解放が行われ、この日を祝日としています。

アルバニアで日本語の新聞を!




アルバニアで日本語の新聞を読んでいただけるようになりました。

アルバニアの首都ティラナの中心にある『スカンデルベグ広場』に位置する書店『アドリオン(Adrion)』は世界65カ国の800もに及ぶ新聞を取り扱っています。


(注:日本語のような、この国においてはまだまだマイナーな言語の新聞は、前日には注文が必要です。)


そこに、なんと!!

近頃、下記日本紙が5紙加えられました。(うち1紙は英語)

・毎日新聞
・沖縄タイムス
・スポーツニッポン
・The Japan Times
・読売新聞

これで、皆さんもアルバニアにいながら、日本のニュースをいち早く読むことができますね。

2009年11月13日金曜日

ジェームス・ベルーシ氏




ジェームス・ベルーシというアメリカの俳優をご存じでしょうか?http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%82%BA%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%82%B7


名前を知らない人も、顔は見たことがあるはず!!
実は彼は、アルバニア系アメリカ人です。
残念なことに、ほとんどアルバニア語は話せないそうです。

彼のお父さんが第2次大戦が始まる前の1934年に15歳の時にアメリカに移民しています。
一方、お母さんはアルバニア人2世として、アメリカで生まれています。

昨年もアルバニアでコンサートに出たり、大学で講演したりしていました。


そんな彼が、この秋から、アルバニアに3社ある携帯電話会社の一つ、“イーグル・モバイル”(トルコ系)の広告に起用されています。


日本でもお馴染みだった“ヴォーダフォン”も3社のうちの1社ですが、“ヴォーダフォン”の宣伝はいつも海外のノの引用&吹き替えなどで、しかもハイレベルの素敵CMですが、一方“イーグル・モバイル”は結構オリジナルで頑張っていて、私はこれはこれでいつも結構気に入っています。

例えば、ティラナの街のあちこちが出ているようなCMだったり。
「これはどこだ?あれはどこだ?あ、ここ知っている!」とか、しばしば釘付けになります。

そして今回ももちろん“イーグル・モバイル”はオリジナルで勝負。

このジェームズ・ベルーシ氏を起用しながら、実際にティラナのマザー・テレサ国際空港やティラナの街を映し出しています。

また作りも、結構好きです。

私自身アルバニア人でもないのに、愛郷心が湧いてきます。

YouTubeでお楽しみください。
http://www.youtube.com/watch?v=e9k6jhh09fw

2009年11月8日日曜日

英雄の街 クルーヤ




アルバニア人の国民的英雄の1人に1405年生まれの“ジェルジ・カストリオティ・スカンデルベグ”という人がいます。



名前が長く覚えていただきにくいので解説しますと、



①“ジェルジ”というのは彼個人のもともとの名前。キリスト教徒の家族の元に生まれているのキリスト教徒名です。



②“カストリオティ”は苗字。



③オスマン帝国支配下で他の多くのキリスト教徒の子ども達と同様に、強制徴用されイスラム教に改宗させられ、教育・訓練をされた時に偉大な“アレキサンダー大王”にちなみつけられた“スカンデル”と言う名前。



④“ベグ”という称号を与えられていた。







幼いころに強制徴用されイスラム式の教育を受け、オスマン帝国のベグとして軍隊を率いて1443年セルビアとの戦いに出ていましたが反旗を翻し、父親が領主を務めていたクルーヤに戻りアルバニアの領主たちをまとめ対オスマン帝国の為に戦い続けました。




彼の活躍はヨーロッパつまりキリスト教の各地で讃えられ、各地で彼の伝記が出版され、騎馬像が建てられています。







そんな町クルーヤは現在も中世の町並みを残し、羊毛織物の帽子やバッグ、絨毯、そして木工や石膏細工、銀・銅細工などが作られ、また販売されています。




小さな町ですが、戦略的にも恵まれたサリ・サルティク山の斜面の650mの所に位置し、アドリア海やアルバニアの各地まで見渡せる、中世の雰囲気の残る味わい深い町です。


城塞内にあるスカンデルベグ博物館は彼の生きた時代背景やまつわる物などの展示が充実していますし、18世紀の民家を利用した民族博物館とその名物おじいちゃんガイドも是非訪れたい所です。




マザーテレサ国際空港にも近く、ティラナからも1時間弱で来れるのでお土産選びにも観光客の方に人気の場所です。




2009年10月21日水曜日

アルバニア人の日本政府への期待



10月19日のニュースでとても誇らしいニュースが報道されていました。

ティラナ市内の中心部を東西に流れるラナ川の汚水が日本政府の支援により整備されるというのです。

ラナ川はティラナ市東部のダイティ山から流れてきますが、ところどころで、汚水が流れ込んでいます。

ティラナ市の下水システムを整備することで、このラナ川に汚水が流れ込むのを防ごうというプロジェクトだそうです。


報道によりますと、日本政府により下水システムに出資される金額は115億円におよび、今回は、プロジェクトの先駆けとなる調査にかかる12カ月分の12億円の契約をかわしたそうです。今回の下水システムの再構築で、さらに深く、そしてさらに広域に広げられるそうです。

プロジェクトの終結の暁には、ラナ川に注ぎ込まれる下水・汚水の状況は 見違えるほどに変わるだろう。そしてティラナは、整備された外観だけでなく、表面には見えない地下システムも整った、本物のメトロポリタンとなるだろう。 と、運輸大臣のソコル・オルダシ氏も契約締後の会見で語っていました。

ティラナ市民を悩ませていた、ラナ川の汚水。


これをきっかけに、ラナ川に対する人々の意識も変わっていくことを願っています。

2009年10月19日月曜日

マザーテレサの日


10月19日はマザー・テレサが2003年に当時のローマ教皇ヨハネ・パウロ2世に列福された日です。

これを記念しまして、アルバニアではこの日を休日にしています。


*列福:カトリック教会において徳と聖性が認められ、聖人(Saint)に次ぐ福者(Beato)の地位にあげられることを言うそうです。





マザーテレサは本名ゴンジェ・ボヤジウといい、1910年8月26日に三番目の末っ子として生まれています。


*ゴンジェとはアルバニア語で蕾という意味です。





彼女は現在のマケドニア旧ユーゴスラビア共和国の首都スコピエで生まれていますが、当時のスコピエはオスマントルコ帝国領のコソボ州・ユスキュプという町でした。

洗礼を受けアグネスという名前をもらっています。




両親はアルバニア人で、父は実業家でしたがアルバニア独立運動の闘士でもあったようで、彼女8歳の時に亡くなっています。

両親はマケドニアに住むアルバニア人のカトリックであったが、当時この地方においてはアルバニア人にはイスラム教徒が多く、マケドニア地方にはマケドニア正教徒が多かったようです。

18歳で故郷のスコピエを離れて、修道女会に入り、27歳の時に終生誓願を宣立し、以後シスター・テレサとよばれることになったようです。

その後の活躍は周知の通り。




1979年にノーベル平和賞を受賞。

1991年には、優れない健康状態を押してテレサの念願であった故郷・アルバニアに最初の「神の愛の宣教者会」の支部を設立しています。

1996年にはアメリカ名誉市民(過去6人しかいないようです。)

1997年9月5日に87歳で亡くなっています。


死後たった6年後の2003年10月19日に列福されていますが、これは驚くべき早さだそうです。
彼女の場合は生前から聖女の誉れが高かったため、例外的にすぐに行われたそうです。



*お客様にしばしば「彼女は何人か」と尋ねられます。出身地が現在のマケドニアなので、お答えするのは容易ではありませんが、彼女は以下のような言葉を残しています。

By blood, I am Albanian. By citizenship, an Indian. By faith, I am a Catholic nun. As to my calling, I belong to the world. As to my heart, I belong entirely to the Heart of Jesus
.

2009年10月15日木曜日

アルバニアの気候<秋>


突然、今週火曜日(10月13日)から気温が下がりました。
前日の月曜日(12日)まで日本からツアーのお客様が11名、さらに先週の日曜日(10月4日)まで15名様がアルバニア・マケドニアの旅にいらっしゃっており、時に雨に降られたりもしましたが、比較的お天気に恵まれていたので、この寒波がやってきたのがお客様をお見送りした後だったので、本当に良かったです。

アルバニアは日本の東北地方から函館あたりに相当する緯度に位置しながら地中海性気候の影響を存分に受けていますので、平野部では、想像されるほど寒くはありません。

しかし、この旅の気温の低下は、先週まで汗ばむような温かさでまだまだ上着なしで出かけていた現地の人々を驚かせました。

最低気温は10℃を切っていたようです。

このまま冬に突入するとは思えませんが、風邪など引かないように気をつけたいものです。

2009年10月1日木曜日

実りの秋



アルバニアでは野菜やフルーツをスーパーマーケットよりも、このようにしてお店の前でご自慢の商品を広げている八百屋さんで買う方の方が多いです。


年中通じて様々な新鮮な季節の野菜やフルーツがアルバニア各地から届けられますが、やはり秋は特にその店先は豊富な種類で、にぎわいを見せています。


カキやモモ、ブドウ、ミカン、リンゴなど日本でもおなじみのフルーツもありますし、オレンジやレモンといったまさに地中海沿岸の国を思わせるかんきつ類、さらに洋ナシ、ブラックベリー、ザクロなどあまり日本人に馴染みのないものも、道々私たちの食欲をそそります。

2009年9月30日水曜日

ジロカストラ民族音楽フェスティバル 2009












ジロカストラ民族音楽フェスティバルに行ってきました!!




これは1968年に始まり、4年に一度、通常は秋に行われる伝統的な祭典です。街全体を見下ろせるジロカストラ城塞の敷地内での野外コンサートです。




1000グループ以上のアルバニア人歌手やダンサーがアルバニア国内だけでなく、コソヴォ、マケドニア、セルビア、イタリア、ドイツ、スイス、アメリカなどからやってきて祭りを盛り上げます。



今年は9月24日から29日までの開催です。



毎日午前10時からは前夜のパフォーマンスについての反省会と討論会、民族音楽や民族学などに関わる専門家よる講演会が行われています。




一方まだまだ日中は汗ばむような陽気のこの時期、日が沈み始め、涼しくなる夕方6時から音楽演奏や歌、ダンスが始まり、9時ごろまで続きます。




2005年からユネスコによって保護されているアルバニア人の同音同音多声音楽(アイソポリフォニー)のグループも、もちろん幾つか出演しています。




音楽が作り出す鳥肌が立つような空気、伝統楽器、さらに民族衣装と芸術などアルバニアの伝統を丸ごと表現しており、夢のような時間を体験することができました。



上記以外の時間帯にも、ステージにてリハーサルが行われていて、街中に音楽が響いていました。







また『石の街』として知られているジロカストラは、アルバニア南部に位置する大変古く、2005年に世界遺産に博物館都市としても登録されています。



食品、革製品、繊維製品が生産される商業都市でもあります。



18世紀(当時この地はオスマントルコ帝国の支配下にありました。)のイスラム寺院やキリストの教会、起源は古代に遡る城塞が街には残っています。



この街を訪れた者を最も惹きつけるのは、互いに重なり合うように建てられ、そして各々がまるで小さな要塞のような、ジロカストラ特有の家々でしょう。素朴で美しい窓、小さな部屋、屋根を支えるために外壁から突き出た支柱が外観のコンビネーションを作り出しています。


このように精巧に重ね上げられた石が由縁となり、ジロカストラは『千の階段をもつ街』または、『石の街』と呼ばれ、世界遺産に登録されたのです。

2009年6月10日水曜日

夏到来! 北部への旅!③ ~セシ Thethi 編 ②~








セシ(Thethi)から車で谷に下り、そして山の裂け目のようなところを45分ほど進むとンデリュサ(Nderlysa)と言う村に辿りつきます。


多くのアルバニア人の方も行ったことがないと言われるような、32世帯ほどもつ奥深い村ですが大変素晴らしい景観がみられます。



もちろんこちらでも、冬は平野部のシュコドラで生活し、6月ごろから9月ごろまでをこちらで暮らすという方が、現在は多いようです。


ですので、まさに山を削っただけや踏みならしただけの道しかなく、ホテルなどもなく、親切で泊まらせてくれるような地元の方のお家ぐらいしかありませんが、その手つかずで雄大な自然に心が洗われます。



もっとアクセスしやすくなり、多くの方にこの自然を楽しんでいただきたいという想いと、巨大なホテルなどが建ち観光地化されてしまうのを残念に思う気持ちが入り交ざります。

夏到来! 北部への旅!② ~セシ Thethi 編 ①~

セシはアルバニア北部最大の都市シュコドラからミニバスで4時間半ほどの所に位置する、小さな村です。


共産主義時代にも休暇村として人々が訪れていたために、伝統や独自の魅力が残っていると言われています。



長い冬は雪に覆われていますので、セシを訪れる絶好の季節の到来に合わせて出発です!!





シュコドラから2時間半後に到着するボガという村までは新しく舗装された道が続きます。



それでも道中には車窓からは、岩肌の頂と、ちょうど芽吹き始めた緑をもつ山々の美しい景色が広がります。







しかし、その後道路は徐々に狭くなり、急こう配の舗装されていない九十九折りの道を進むことになります。






対向車があると、冷や冷やするような場面も・・・








しかし、4時間ほど経つと、標高1630mを超える峠を過ぎると、アルバニアン・アルプスの絶景が広がります!!





あと少し下っていくとセシの村に辿りつきます。







雪深くなる冬もこの村で生活することは、ほぼ孤立状態となってしまい困難なので、多くの村民が現在は“冬季はシュコドラで生活、夏季はセシに戻る”という生活をされています。




そのような家庭の何軒かが、6月ごろから9月にかけて村でペンションを開き、国内外からのお客様を待ってくれています。


1908年にイギリス人の作家エディス・ドゥルハム(Edith Durham)氏は、この村での滞在記録に“セシでの生活に惹きつけられていた。・・・世界中の他の何もかも忘れてしまった。私がもとの世界に戻る理由などないかの様に思われた。”と、本に書き残していますが、現在でも同様に、私たちの心を掴んで離しません。





こちらは今回泊まらせていただいたペンションに庭からの景色です。



セシ村の谷を降りて行くと、セシ村の中でも居住者の多い地域になり、小中学校や教会、いくつかのペンションや、村の人々の集うカフェなどがあります。


↑この赤い建物がセシ小学校です。




人口の7割がイスラム教徒と言われているアルバニアですが、オスマン・トルコ勢力もこのような山奥深くまでは支配が及ばず、北部最大の都市シュコドラからこの地域一帯にかけては、キリスト教徒(中でもカトリック教徒)の方が主です。


(*オスマン帝国の支配があってもカトリックが守りぬかれている地域もあります。)



セシ村を囲むようにアルバニアン・アルプスの高い山々がそびえ、またシャーラ(Shalë)地域の北部の標高700~950mのところに広大なセシ国立公園も広がります。


主に谷の底に地域はヤナギやハンノキが、中央部ではブナの森が広がります。
ブナの生息地より高いところは中東欧地域に見られるモンタナマツ(Mountain Pine)や、バルカン半島でもこの地域にしか見られないボスニアマツ(Heldreich Pine)が標高2300mあたりから生息しています。


何千種もの植物がセシ地域には見られますが、その中の約50種は絶滅の危機にある品種だそうです。


植物に関して言えば、オオバコ科のWulfenia baldaccii、フキ属のPetasites doerfleri、ユリ属のLilium albanicumなど、いくつかの品種がセシ地域や、モンテネグロやコソヴォとの国境を越えて横たわるこの山岳地域に特有のものだそうです。


一方、ヒグマ(Ursus arctos)、オオヤマネコ(Felis lynx)、ヤマネコ(Felis silvestris)、タイリクオオカミ(Canis lupus)、シャモア(Rupicapra rupicapra)などがセシを囲むように位置する山に生息していますが、オオヤマネコとヤマネコはアルバニアの高地においても特に珍しいです。

キツネ、イタチ、アナグマ、ヤブノウサギ、イノシシは広範囲に生息しており、急激に減少しているもののカワウソもアルバニア国内の多くの川で見られます。

セシ国立公園では豊富な種類の希少な鳥類も見られます。

シロエリハゲワシやイヌワシ、ヒメクマタカ、ノスリ、ハイタカなどの肉食性が見られ、もう少し標高の低い場所では南ヨーロッパで繁殖しアフリカへ越冬する優美なヨーロッパハチクイ、ヨーロッパアオゲラやアカゲラ、ヤツガラシ、ハマヒバリなどを筆頭に様々な鳥類を見ることができるそうです。

また、アルバニアやその隣国にではまだ見られますが東ヨーロッパでは激減しているキクガラシコウモリやユビナガコウモリ、その他世界的に絶滅危機にある種、南ヨーロッパにのみ生息する種などもアルバニアでは見られるそうです。

絶滅危機種のアポロウスバシロチョウ、ラージブルーなどの蝶や、ヘルマンリクガメ、両生類愛好家にはたまらない、ホクオウクシイモリやミドリカナヘビ、アカガエル、クスシヘビ、ハナダカクサリヘビなど爬虫類にも富んでいます。


まさに今も100年前も人々を惹きつけてやまないセシ地域です。

夏到来!北部への旅!① ~シュコドラ Shkodra 編~




シュコドラは紀元前4世紀に設立されたと考えられており、そこはゲンティ王とテウタ王妃の支配していたイリリア人ラベアテ族の王国がありました。紀元前168年にローマの支配下に置かれ、商業的、マケドニア王国に対するローマの軍事的に重要な位置となるという、大変古い歴史を持っています。






入り口付近には紀元前4世紀のイリリア人時代の城壁部分も一部残っています。写真は1407~1414にヴェネチア人によって建てられたやぐら門。


7世紀前半にはビザンチン帝国のヘラクリウス帝によりシュコドラの町はスラヴ人に与えます。

15世紀にオスマン帝国の支配下に入るまでの、およそ8世紀近くもの間は、モンテネグロの公国に支配されたり、ヴェネチツィア共和国の支配下に入ったりもしました。


最終的にヴェネツィアとオスマンの間で行われた協議により、多くの人がこの町を離れ、見捨てられた町をオスマン帝国が引き継ぐことになります。 ロザファ城内にあった13世紀にさかのぼるカトリック教会も、1479年のオスマン帝国の支配以降はモスクに変換されたようです。



1773年から1853年までは、城塞の建つ丘の東側の、この鉛屋根のモスク(写真中央の白い建物。ミナレットはありません。)を中心にシュコドラの町が形成されていたようです。しかしこの頃から徐々に現在の街の広がる城塞の丘の北側へと機能が移って行きました。





18世紀のシュコドラの人々とロザファ城。



このような複雑な歴史をもつシュコドラのロザファ要塞からはとても美しい風景が一望できます。



手前がブナ(Bunë)川。奥に見えるのは隣国モンテネグロと国境を分つシュコドラ湖。
雪解け水が流れ込む春には、バルカン最大面積を誇ります。


他にもキリ川、シュコドラの街や平野に広がる周囲の村、そして遠くにはアルバニアン・アルプスの入り口となる山々が望めます。


*春から秋にかけての結婚式シーズンにはこんな風に記念撮影の幸せカップに出くわすかもしれません!!

2009年4月4日土曜日

春到来、花満開








アルバニアでは雨続きの冬が終わると、突如に暖かくなり色とりどりの花が咲き始めます。




こちらでも3月半ばになると歩道の植えられているマグノリアが開いているのを見かけますし、7年前からの公園整備にともない植樹された木々や花壇が目を楽しませてくれます。




写真①NATO加盟を祝う垂れ幕と共にティラナの中心部を東西に流れるラナ川の土手で。


写真②シェラトンホテルの近くに位置する議会会館(Pallati i Kongreseve)の裏手で。
写真③センターから西へ延びるカヴァヤ通りで。